写メ日記 | 続 五番

続 五番

2018/05/24 11:06:57

ところでCHANEL社に とって
「シャネルNo.5」は莫大な利益を
もたらすと同時に、第二次大戦中の
不可解な政治活動と それに続く
戦後の嫌な思い出の元凶とも なった。

シャネルは 1924年に実業家
ヴェルメールとNo.5の為に香水部門
を別会社として設立以後 順調に業績
を伸ばしマリリンモンローの名文句を
待たずとも「シャネルNo.5」は既に
人気が高く謂わば パリ土産の代名詞に
なっていた。
このことは、1944年に八月の
自由解放(仏駐留ナチス独軍司令官
コルティッツが第二装甲師団
ルクレール元帥に投降、降伏文書に
署名 1時間後、ド・ゴール将軍が
凱旋門を通ってパリ市街入りし、
占領下を解いた)で入国した連合軍の
高級将校、下士官Giたちが 長蛇の
列を並んで 本国の妻や婚約者や恋人
の土産に「No.5」をこぞって買い求
めた(CHANEL広報部)という事実から
証明されている。

シャネル社は 1939年第二次大戦が
勃発するや 香水部門のみ除いて閉店
し ナチスドイツのパリ占領と同時に
カンボン通りの出店で直営する分以外
の販売権も製造権もヴェルメールに
委譲してしまっていた。
シャネルが権利奪還に駆られたのは
1940年ナチスが制定した ユダヤ人
取締法である。
「全てのユダヤ人は自己の所有する
企業の所有権を放棄しなければ
ならない」
ヴェルメールはユダヤ系資本家で
当時 米国に亡命していたため
シャネル社は 好機と考えたが、
彼等は本国パリの別商会に委託して
いた為、奪還は結局失敗する。
シャネルが第二次大戦中、英独の
単独講和を画策したのは この
「シャネルNo.5」の利権問題が
あったからだとの指摘がある。
(結果的にレジスタンスと対独協力
になる という意識は全くなかった)
終戦次第、正式に「五番」について
協議しようと 戦争の早期終結計画に
乗り出したと見られる。
係争が解決するのは 戦後の1947年
で、シャネル社に欧米での「五番」
の売上の2%と損害賠償金35万フラン
支払うことで和解した。
担当したシャネル社の弁護士ルネ・
ド・シャンブランは「我々は最初、
5%を要求した」とシャネルが如何に
この「五番」香水問題に執着したか
をマスコミに明かしている。

1945年のロンドンで行われた英国
情報部によるW・シェレンベルグ
(ナチ親衛隊高官 和平工作に関与し
た)の尋問書には「ココ・シャネル
フランス人で高名なデザイナー、
香水会社の所有者なる この女性は
チャーチル首相の知人で、仏独を
助ける為にロシアを敵として
チャーチルと政治交渉を行えると
述べている。」(米国立公文書館)
と記されている。
シャネルの最後のパトロンにして
会社の出資に関わったとされる
ウェストミンスター公爵の親友の
チャーチル首相とシャネルは旧知
の仲だ。
英独が単独和平交渉を行う様に提案
したのだろうか?
シャネルの第二次大戦中に関する
行動について明言は避けられている。
戦時下に 敵国の首都で情報部の
トップと会見したことはシャネルに
「対独協力者」のレッテルを貼りか
ねないからだ。
事実、シャネルは自由解放の際に、
フランス国内軍(FFI)に尋問されたが
即時釈放されている。これは
チャーチル首相の介入があったから
と云われている。



産経新聞 仏支局
新潮社
山口昌子 (著)
「シャネル社の真実」 より



貼p
梅田阪急百貨店前
通勤途中

こぅいう 貧ボな己に全く縁のない
別世界の文献を読んだりして
セレブリッチな気分に浸る(笑)
図書館オタク(^q^)📖 キク婆w

はい、今朝もアタマ 通常変態 です💕
が、なにか?

現実逃避もしとれんので
今日も パチもんCHANEL⌚✨
つけて頑張るでぇ~(笑)